「ほめる」と「おだてる」を考える

『りんご通信』2000年1月号より

 「ほめる」と「おだてる」はどう違うかと聞くと、「おだてる」には下心が感じられ「ほめる」にはそれがない、という指摘が返ってきます。まさにその通りなのですが、ここではその点をひとまず棚上げして、別の角度から両者の違いを考えてみましょう。面白いしつけのチップスが見えてきます。

 まずこの二つは発するタイミングが違います。つまり、「ほめる」のは何か行動があった後であるのに対して「おだてる」のは行動の前です。「ほめる」も「おだてる」も快さが共通点の、いわばごほうびなのですが、それを与えるタイミングの違いが「ほめる」と「おだてる」の構造的な違いをもたらしています。
 「豚もおだてりゃ木に登る」という諺があります。木にはとうてい登れない豚でさえもおだてれば…、というわけです。けれどもぼやき漫才風に屁理屈をこねると、どんな豚であってもおだてられて木に登ることはありません。豚を木に登らせようとするなら、登りかけたらすぐほめ、また登ったらすぐほめることをつないでいくほかないでしょう。ところが人間ならおだてて木に登らせることが出来る…、という訳で、しつけにおいてもついつい親は子どもをおだてて何かをさせようとしがちです。けれども子どもだってそうそうおだてには乗ってはくれないものですし、そればかりか、逆効果に終わることも少なくありません。それはなぜでしょう。
 行動主義の心理学に「強化の原理」というものがあります。ある行動に対してごほうび(報酬)が返ってくるとその行動は強化され、ごほうびが返らなくなると消去する。また、ある行動に対して不快な刺激、つまり罰が返ってくるとその行動は減少するという、いわばアメとムチの原理です。アメといっても文字通り生理的な作用を持つものから賞賛や注目などの社会的報酬と呼ばれるものまでを含み、さらに嫌なことがなくなるのもアメのうちです。
 しかし「おだてる」はこの原理にすんなりと収まりません。「おだてる」をこの原理から見ると「ほめる」というアメに変身してしまいます。このアメが、まだ行動がない時点で与えられているのですから、「何もしないことを強化する」結果に成りかねないのです。「おだてる」が逆効果になる訳です。
 「おだてる」が成り立つにはそのメッセージが伝わらなくてはなりません。それには高度で大量な情報の入力が必要です。受け手の能動的な姿勢も欠かせません。ところが快いごほうびのアメに変身してしまえばはるかに少ない情報入力で済みます。「おだてる」が失敗するのはこの単純な情報合戦に負けたときだと言えましょう。情報の受け手が未成熟であればある程そうなる可能性は高くて当然です。
 強化の原理(学習理論、オペラント条件付けなどとも言う)はもともと動物の行動を対象に出発したものです。人間の営みが(そしておそらくは動物のそれでさえも)本質をすべてこの原理で説明できるほど単純なものだとはとうてい思えませんが、同時にこの原理が、動物はもとより人間の営みのあらゆるところに働いていることも否定できません。情報入力が少なくて済む経済的な適応機構ですから、乱暴な言い方をすれば、人間の中の動物と共通する部分で幅を利かせています。だから、しつけの場でもこれに逆らったアプローチが難しいものになることは知っておくべきです。
 学ぶべきは、子どもが何かをしたりしなかったりするとき、そこに何かごほうびが働いているのではないかと逆方向から考えてみる視点を持つことです。例えば、子どもの悪語(「ばばたれ」を頻発するなど)はよくあることですが、叱っても叱ってもやめないなら叱ることがごほうびになっているのではないか…と、逆に考えてみましょう。叱るのを一切やめて無視したらだんだん言わなくなったなどというケースはよくあります。叱ったり罰を与えたりするより、その行動を強化している刺激(強化子)を見つけ出して取り除くのは親切で有効な方法です。
 しつけには「したいことをさせない」と「したくないことをさせる」がつきものですが、そのための学習理論の立場からの技法にはまことに精緻なものが構築されています。機会があればまた見てみましょう。

 ところで、こうしてみると「おだてる」というのは、相手の期待に応え自分を励まして高みを目指すという、優れて人間らしい反応を期待したものだといえます。「おだてる」の語感の悪さをを除けばむしろ子育ての王道だとさえ言えましょう。ただこれも過ぎると過剰適応の怖さがあります。やはり子育てはほどほどのバランスが大事です。

サンタクロースと ファンタジー

『りんご通信』2001年12月号より

 1973年12月10日の朝日新聞に児童文学者の松岡亮子さんが『サンタクロースの部屋』と題する一文を寄せています(これは後に同名のエッセイ集の序文に転載されているのでお読みになった方もいるでしょう)。その中で、あるアメリカの児童文学評論誌の記事として次のような文章を引用しています。
 「子どもたちは遅かれ早かれ、サンタクロースが本当はだれかを知る。知ってしまえばそのこと自体は他愛のないこととして片付けられてしまうだろう。しかし、幼い日に、心からサンタクロースの存在を信じることは、その人の中に、信じるという能力を養う。わたしたちは、サンタクロースその人の重要さのためではなく、サンタクロースが子どもの心に働きかけて生み出すこの能力のゆえに、サンタクロースをもっと大事にしなければいけない」というものです。
 これを受けて松岡さんは、「心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間をつくりあげている」ので、長じてサンタクロースがいなくなっても、そこに「サンタクロースに代わる新しい住人を迎え入れる」ことができる。それは「目に見えないものを信じるという心の働き」で、この働きが「人間の精神生活のあらゆる面で、どんなに重要かはいうまでもない。のちに、いちばん崇高なものを宿すかもしれぬ心の場所が、実は幼い日にサンタクロースを住まわせることによってつくられるのだ」と述べています。
 このコラムが載った頃、日本の社会は技術革新と高度成長に走る一方で、人の感性や知性が合理性だけでは治まらないことに目を向け始めていました。ファンタジーの意味が問い直されていたのです。その後、オカルトや超能力ブームから宗教や「精神世界」ブームからオーム真理教、最近では「千と千尋の神隠し」や「ハリー・ポッター」まで、ファンタジーをめぐる世相にはめまぐるしいものがありますが、世の中がどう変わろうと、松岡さんが説くサンタクロースの意味は、ほど良い普遍性を保っているように思います。
 ところで、松岡さんはさらに、
「別にサンタクロースには限らない。魔法使いでも、妖精でも、鬼でも仙人でも、ものいう動物でも、空とぶくつでも、打ち出の小槌でも、岩戸をあけるおまじないでもよい。幼い心に、これらの不思議の住める空間をたっぷりとってやりたい」と書いていますが、しかし、サンタクロースは、魔法使いや妖精等々のファンタジーとは明らかに別次元のリアリティーをもっています。それは言うまでもなくサンタさんのプレゼントであって、サンタはおとぎの世界と現実世界を「現物への欲望」で架け橋するいささかトリッキーなファンタジーなのです。トリックの実行犯たる親としては、これがどう続くのか、その行く末が気になるものではないでしょうか。そこで一編の詩を鑑賞していただきましょう。
 「サンタクロース」と題したこの詩は、以前、アディムの課題で三年生の女の子が書いたものなのですが(散文として書かれたものを詩の体裁に補作し、アディムの4年生の教材に借用しています)、サンタクロースという圧倒的なインパクトをもつファンタジーが、その後の子どもの現実認識とどう折り合っていくのをかい間見せてくれます。

  「サンタクロース」
 クリスマスの夜/私はきいてみました。/どうせ、サンタさんがもってくるんやから/高いものでもいい?/お母さんは/「あかん。」といいました。/そうか、やっぱりあかんのか。
 いもうとに/私はきいてみました。/サンタクロースって、いてるとおもう?/いもうとは
「いてない。」といいました。/そうか、やっぱりいてないのか。
 おねえちゃんにも、私はきいてみました。/するとおねえちゃんは/「ゆめがないんやな。」と、いいました。/わたしは/「そうか!」と思いました。
 いもうとは、サンタクロースなんて/いてないっていうけど、/私は大きくなるまで/いてると思っとこ。
 ときどき、いもうとが/サンタクロースなんて、いないというと/私はいそいで/「いてる、いてる。」といいます。

 これを学習課題にして考えを展開させるとまた面白い話になるのですが、それはさておき、この詩に、「目に見えないものを信じるという心の働き」が揺さぶられ変容しつつ再生していく様が見て取れはしないでしょうか。人間の心には、ほどよいファンタジーが必要なのです。

甘えは子どもを強くするのか弱くするのか

『りんご通信』2004年3月号より

かつて日航機墜落事故の折り迷走する機内で死を覚悟した父親がわが子に書き残した最後の言葉が「強く生きろ。」だったと報じられたとき、多くの親が身につまされる思いをしました。まことに人生を思えば、「強い」人に育って欲しいと願うのは親心です。

ところで、「強い」に親心は何事を託しているのでしょう。おそらくは人に頼らず、甘えず、自身の力で困難を解決していく「自立した精神の持ち主」といったところでしょう。それはいわば時代が要請する命題なので、世の親がこぞって子どもの自立を願うのも不思議ではありません。その結果「甘える」という営みが 「自立」をはばむものとして否定的に受け止められたとしても、これまた不思議ではないのでしょう。けれども、それで子どもは本当に「強く」育つのでしょうか。強さとは何か、甘えとは何か、もう少し分け入って考えてみましょう。
 母と子の関わりが育む「甘え」の感情を日本人特有の心理構造として説明した土居健郎の『甘えの構造』が出版され、三十余年が経ちました。その間、氏の「甘え」についての考察は心理学を超えて広範な影響を与えました。ところが一方、「甘えの構造」という言葉は一人歩きをしだし、日本人に特有な甘やかしの悪しき有り様を糾弾する用語として一般受けされていった嫌いがあります。それはちょうど「情けは人のためならず」ということわざが本来の意味とは逆に「情けをかけてはは本人のためにならない」と解釈されだしたのと機を一にする時代風潮の所産なのでしょう。かくして人は人に情けをかけにくくなり、子は親に甘えにくく、親は子を甘えさせにくくなった状況があります。それは、子どもの心の失調や、親による虐待の多発などと無関係なのでしょうか。

これに関し土居健郎は、昨年、『続「甘え」の構造』(弘文堂刊)を世に問い、興味深い考察を展開しています。まず、あらためて「甘え」の定義を「人間関係において相手の好意をあてにして振舞うこと」(65ページ)だとしています。また、「甘え」という言葉のもつ意味内容として「人間関係において接近を喜ぶ感情」(84ページ)であり「そのような感情を持つことを欲すること」だとも述べています。そしてこの感情は日本においては「甘え」という適切な語をもっているほどに顕在しているのだが、実はどんな社会·文化においても働いているものだとし、「求める愛」(ルイス)、「受動型の愛」(バリント)、「刷り込み」(ローレンツ)、「アタッチメント」(ボウルビー)などの概念との共通点を見て、その普遍性を説いています。この碩学が、西欧の文脈の中に「甘え」に相当するものを見つけたときの真摯な喜びはそのままこちらに伝わってきて、言いしれぬ安堵感をもたらしてくれますが、それとともに、「人間は本来幼年時代に甘えることで人間関係に組み込まれ、甘えながら信頼を学び、次いで社会で自立するに至る。」(130ページ)のだとあらためて示した見解は、甘えが自立をはばむものではなく、自立を健やかに準備するものだということを再確認させるメッセージとして、世の親には重要です。

人間にとって強さとは何でしょう。「意志が強い」「けんかが強い」、「がまん強い」など、強いイメージにはいろいろあります。けれどもまず大切なのは、人それぞれに人間関係をつくっていく力ではないでしょうか。人間は社会的な生き物ですから、これなしでは生きていけません。そのためにまず、幼児期に両親、ことにお母さんにしっかりと受容され、十分に「甘えた」体験が必要なのです。 甘えることによって、心の深いところに他者と自分とに対する信頼感を根付かせ、人への接近を喜ぶ感情を培った子は、自分が無力な存在ではないことを知っています。これが人としての強さの前半分です。そして後半分は、自分が無力な存在ではないことを知った子が欲求のまま生きようとするとき、親が「それはダメだ」とか「自分でやれ」などとしつけることで実現します。その厳しさを通して、社会的に危険なことを知ることが人の強さのもう一つの側面です。
 甘さと厳しさ、この相反するどちらを欠いても強い子に育てることはできません。けれどもそのことを端的に表現するのはなかなかの難問で、昔から「甘やかしてはいけないが甘えを受け入れる必要はある」などと複雑な言い方をしたものです。でも、そこに順序·機序があると考えれば取り組みに整理がつきます。まず甘み、その上での辛み…、料理の味付けといっしょですね。甘みが利いていて、初めて辛みが生きてくるもの…、順序が逆だと、なかなかうまくいかないのです。

内向的な子 vs 外向的な母親の ヒゲキ?

人はみな同じではない

『りんご通信』2002年9月号より

こんな話があります。
 ある秋の晩、お母さんが台所仕事をしていて、フト今夜はいい月夜のはずだったと気づき、縁側で遊んでいた子どもに聞きました。「〇〇ちゃん、お月さま出てるでしょ? まん丸いお月さん? それとも三日月さん?」。するとその子は夜空の満月を見上げ「まん丸いお月さんだよ。お母さん」と答えました。ところが別の子。お母さんが同じことを聞いたら、その子はフーと夜空の満月を見上げ、しばらくは月の輝きに見入っていて(きれいやなあ。あそこでウサギさんがおもちついてるってほんまやろか…どれがウサギやろ…)などと、まるで深呼吸でもするように思いをめぐらしていています。いつまでたっても返事がないので、お母さんはもう一度たずねます。「どうなの、お月さんは、まん丸い?」。するとその子は「エーとねぇ。あのね。ウサギさんがね…」。
 この話は(出所が定かではないのですが)外向的な子と内向的な子の違いをイメージとして表現したものです。前者は外向的な子で、相手に返すことにスッと気持ちが向き、期待されるような答えを上手くまとめて反応しているのに対し、後者は内向的な子で、自分が内面で感じたことにより気持ちが向くため、考えがさまよったり膨らんだりしたあげく、相手には分かりにくい反応をしています。「かしこいねえ」と受け入れられやすいのは前者かもしれませんが、お月さまについてより深く感じ、考えているのは後者だという違いが汲み取れます。(ただしこの話はあくまでたとえ話なので、よくある「心理テスト」の類ではありませんから念のため)

外向的か内向的かというのは、基本的にはその人の自然な興味·関心が自分の内面に向かうか外界に向かうかの傾向の違いですが、これが子育てや教育の場に働く影響は意外とバカにできません。内向きの個性と外向きの個性とでは物事の受け止め方や反応の仕方、そして価値観までがときに正反対だったりするからです。
 多くの場合、人は両方の要素をもっているのではっきりと分け難いものですが、あえて単純に言えば、外向的な人は内向的な人が分からず、内向的な人は外向的な人が分からないので、お互いに苦手でキライということになります。このギャップが親子で生じると当然ながら親子関係に影響します。ことに子どもが内向的な場合、お母さんも内向的なら子どもの心の中を分かってあげやすいのですが、お母さんが外向的だとそうはいかなくて、先の話なら「お月さんはまん丸なの? そうじゃないの? どっちかハキハキしなさいよ」などと、否定的な関係になりがちです。テンポも内向的な子はゆっくりめなのに対し外向的なお母さんは速めなことが多いので、勢い「早くしなさい!」を連発することにもなります。逆のシチュエーションでも、やはりそれ故の行き違いが生じることになります。学校や幼稚園などで、担任の先生が変わるとクラスの雰囲気や子どもの様子が変わることがありますが、これにも向性が関わっている場合が少なくありません。
 価値観の違いはこんなエピソードを生みます。小学校の低学年のクラスで子どもたちが家へ持ち帰る作品づくりをしていましたが、ある子の作品はちょっと子どもの手に余りそうだったので先生が少し手を加えておいてあげました。ところがその子は、「これはもう私の作品じゃない。私が作ったものをお母さんにあげたかったのに」と泣いて悲しんだというのです。この子にとって重要なのは傍目の出来栄えといった外的な価値ではなく、自分でやり遂げることで得られる内的な価値だったのです。もしこれが外向的な子どもだったら、出来栄えの良さという外的な価値に満足し、喜んで持ち帰ったかもしれません。
 こうした向性の違いはとりわけ子どもの社会的な対人態度に現れます。例えば、ふと子どものしぐさや言葉づかいがおかしかったり可愛かったりすると、大人は思わず笑ってしまうものですが、これを受けた子どもの側の反応はさまざまで、ことに座の中だったりすると、外向的な子はますますはしゃぎだすのに、内向的な子はとたんに傷ついたとばかり引っ込んでしまってウンともスンとも言わなくなるといった違いです。
 向性は人の個性であって、どちらが望ましいわけでもありません。互いに異なる得手·不得手をもって補い合う性質のものです。親でも先生でも、子どもに対しては自分の向性がどうであれ、それを越えた視点で配慮を払うべきでしょう。

「お空がこわれる…」に なぜ、感動するのか。

『りんご通信』2000年11月号より

 最近、朝日新聞に『あのね… 子どものつぶやき』というコラムが掲ることがあります。ひとつだけ引用させてもらうと、
『トンボが群になって飛んでいる。「どこで生まれたんだろうね」と尋ねると「風から生まれたんだよ、きっと」(名古屋市 木村勇大・3歳)』
といった調子です。こうした思いがけないことを子どもはよく話してくれます。教室でもお母さん方に「書きとめておくと愉しいですよ」とお奨めしているので、そのおこぼれがときどきアップルノートにも登場するのですが、ずっと以前にこんなのがありました。
 あるとき貸農園で親子そろって汗を流していたら、空がにわかにかき曇り、ゴロゴロと雷が鳴りわたりました。そのとき三才のさやかちゃんが「お空がこわれる」とつぶやいたのだそうです。それを聞いてお父さんが「詩人だなあ」といたく感動していたという話です。親バカですとノートは結んでありましたが、親でなくても心打たれるものがあります。しかしなぜここで大人は感動するのでしょう。

通念にない結合が生む
新しい価値
 この場合、ふつうは「雷が鳴っている」と表現します。ところがこの子はそんなことは知らなかった―、だがその場の異変をなんとかして表現したかったのです。そこでとっさに、何かがこわれるとき音がするというすでに獲得している知見と、音の発生した方角に空があるという認識とを結びつけて「お空がこわれる」と言った―。それが、いかにもその時の状況を言い得て妙であった―。その、なんとかして表現しようとした健気さと、通念では結びつかぬ「お空」と「こわれる」を結びつけて見事に表現し得た手柄とに、大人は感動するのでしょう。
 この子もやがて「お空がこわれる」とは言わなくなります。教えても教えなくても、通念にしたがって「雷が鳴っている」としか言わなくなるでしょう。それは、子どもの成長過程のひとこまに違いありません。ただ、もしそれで「お空」と「こわれる」を結びつけるような頭の柔らかさを失っていくとしたら、それは問題です。なぜならふつうでは結びつかぬものを結びつけて新しい価値を発見・産出するというパターンには、創造的思考のカギがあるからです。
 人は経験から全くかけ離れたことを思いつけるものではありません。新しい何かが必要なとき、すでにある世界を視点を変えて見直し、結びつきにくいものを結びつけてみる頭と心の柔らかさがモノを言います。これは「生きる力」やユーモアの源泉でもあります。

ハキハキと
「はい、ワカリマセン」?
 先日、「お受験」をテーマにしたテレビ番組をのぞいたら、面接の練習場面にこんなのがありました。先生が子どもに「好きな季節は何ですか」と聞きます。子どもは即座に「それは夏です」と答えます。そこで先生が「どうして夏が好きなのですか」と聞くと「海へ行ってあそべるからです」と淀みなく答えています。これで試験者を安心させることが出来るのか知りませんが、いかにもステレオタイプの茶番と言わなくてはなりません。おそらくは万事がこの調子で、あれこれ子どもを通念の網にからめ取ってしまいそうです。
 アディムランドの在籍生にも当然ながら「お受験」のためにその種の教室に通い始める子がいます。アディムはそのことに関知しないのですが、子どもの様子でそれが見え見えになることがあります。例えば妙に紋切り型になって、すこしやっかいな課題に当面すると「はい、ワカリマセン」と実にハキハキ言ってのけたりしだします。ああでもないこうでもないと、ねばっこく取り組むアディムらしさが壊れてしまってガッカリします。まだ資質にゆとりのある子は状況を複雑に判断し、場に応じて使い分けも出来るのですが、ゆとりのない子はそれで凝り固まってしまいかねません。そんな子を見ると、パーソナリティーに及ぼす幼児期の影響の大きさを改めて実感します。こうして作られた方向を転換することはなかなか困難なものです。
 幼い子の親としては、「お空がこわれる」に感動する親バカ心を大事にしたいものです。もちろん「お空がこわれる」であれば「そんな言い方はいけません。雷が鳴っていると言いなさい」などと咎めたりはしないでしょう。しかし実のところ私たちは「お受験」に限らず日常的なさまざまな場面で、それに類した対応をしかねない状況にあります。「お空がこわれる」に続く発想を封じ込めるような「教育」を、無反省によしとしてはいないか疑ってみる必要があります。