『りんご通信』2004年3月号より
かつて日航機墜落事故の折り迷走する機内で死を覚悟した父親がわが子に書き残した最後の言葉が「強く生きろ。」だったと報じられたとき、多くの親が身につまされる思いをしました。まことに人生を思えば、「強い」人に育って欲しいと願うのは親心です。
ところで、「強い」に親心は何事を託しているのでしょう。おそらくは人に頼らず、甘えず、自身の力で困難を解決していく「自立した精神の持ち主」といったところでしょう。それはいわば時代が要請する命題なので、世の親がこぞって子どもの自立を願うのも不思議ではありません。その結果「甘える」という営みが 「自立」をはばむものとして否定的に受け止められたとしても、これまた不思議ではないのでしょう。けれども、それで子どもは本当に「強く」育つのでしょうか。強さとは何か、甘えとは何か、もう少し分け入って考えてみましょう。
母と子の関わりが育む「甘え」の感情を日本人特有の心理構造として説明した土居健郎の『甘えの構造』が出版され、三十余年が経ちました。その間、氏の「甘え」についての考察は心理学を超えて広範な影響を与えました。ところが一方、「甘えの構造」という言葉は一人歩きをしだし、日本人に特有な甘やかしの悪しき有り様を糾弾する用語として一般受けされていった嫌いがあります。それはちょうど「情けは人のためならず」ということわざが本来の意味とは逆に「情けをかけてはは本人のためにならない」と解釈されだしたのと機を一にする時代風潮の所産なのでしょう。かくして人は人に情けをかけにくくなり、子は親に甘えにくく、親は子を甘えさせにくくなった状況があります。それは、子どもの心の失調や、親による虐待の多発などと無関係なのでしょうか。
これに関し土居健郎は、昨年、『続「甘え」の構造』(弘文堂刊)を世に問い、興味深い考察を展開しています。まず、あらためて「甘え」の定義を「人間関係において相手の好意をあてにして振舞うこと」(65ページ)だとしています。また、「甘え」という言葉のもつ意味内容として「人間関係において接近を喜ぶ感情」(84ページ)であり「そのような感情を持つことを欲すること」だとも述べています。そしてこの感情は日本においては「甘え」という適切な語をもっているほどに顕在しているのだが、実はどんな社会·文化においても働いているものだとし、「求める愛」(ルイス)、「受動型の愛」(バリント)、「刷り込み」(ローレンツ)、「アタッチメント」(ボウルビー)などの概念との共通点を見て、その普遍性を説いています。この碩学が、西欧の文脈の中に「甘え」に相当するものを見つけたときの真摯な喜びはそのままこちらに伝わってきて、言いしれぬ安堵感をもたらしてくれますが、それとともに、「人間は本来幼年時代に甘えることで人間関係に組み込まれ、甘えながら信頼を学び、次いで社会で自立するに至る。」(130ページ)のだとあらためて示した見解は、甘えが自立をはばむものではなく、自立を健やかに準備するものだということを再確認させるメッセージとして、世の親には重要です。
人間にとって強さとは何でしょう。「意志が強い」「けんかが強い」、「がまん強い」など、強いイメージにはいろいろあります。けれどもまず大切なのは、人それぞれに人間関係をつくっていく力ではないでしょうか。人間は社会的な生き物ですから、これなしでは生きていけません。そのためにまず、幼児期に両親、ことにお母さんにしっかりと受容され、十分に「甘えた」体験が必要なのです。 甘えることによって、心の深いところに他者と自分とに対する信頼感を根付かせ、人への接近を喜ぶ感情を培った子は、自分が無力な存在ではないことを知っています。これが人としての強さの前半分です。そして後半分は、自分が無力な存在ではないことを知った子が欲求のまま生きようとするとき、親が「それはダメだ」とか「自分でやれ」などとしつけることで実現します。その厳しさを通して、社会的に危険なことを知ることが人の強さのもう一つの側面です。
甘さと厳しさ、この相反するどちらを欠いても強い子に育てることはできません。けれどもそのことを端的に表現するのはなかなかの難問で、昔から「甘やかしてはいけないが甘えを受け入れる必要はある」などと複雑な言い方をしたものです。でも、そこに順序·機序があると考えれば取り組みに整理がつきます。まず甘み、その上での辛み…、料理の味付けといっしょですね。甘みが利いていて、初めて辛みが生きてくるもの…、順序が逆だと、なかなかうまくいかないのです。