『りんご通信』2001年12月号より
1973年12月10日の朝日新聞に児童文学者の松岡亮子さんが『サンタクロースの部屋』と題する一文を寄せています(これは後に同名のエッセイ集の序文に転載されているのでお読みになった方もいるでしょう)。その中で、あるアメリカの児童文学評論誌の記事として次のような文章を引用しています。
「子どもたちは遅かれ早かれ、サンタクロースが本当はだれかを知る。知ってしまえばそのこと自体は他愛のないこととして片付けられてしまうだろう。しかし、幼い日に、心からサンタクロースの存在を信じることは、その人の中に、信じるという能力を養う。わたしたちは、サンタクロースその人の重要さのためではなく、サンタクロースが子どもの心に働きかけて生み出すこの能力のゆえに、サンタクロースをもっと大事にしなければいけない」というものです。
これを受けて松岡さんは、「心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間をつくりあげている」ので、長じてサンタクロースがいなくなっても、そこに「サンタクロースに代わる新しい住人を迎え入れる」ことができる。それは「目に見えないものを信じるという心の働き」で、この働きが「人間の精神生活のあらゆる面で、どんなに重要かはいうまでもない。のちに、いちばん崇高なものを宿すかもしれぬ心の場所が、実は幼い日にサンタクロースを住まわせることによってつくられるのだ」と述べています。
このコラムが載った頃、日本の社会は技術革新と高度成長に走る一方で、人の感性や知性が合理性だけでは治まらないことに目を向け始めていました。ファンタジーの意味が問い直されていたのです。その後、オカルトや超能力ブームから宗教や「精神世界」ブームからオーム真理教、最近では「千と千尋の神隠し」や「ハリー・ポッター」まで、ファンタジーをめぐる世相にはめまぐるしいものがありますが、世の中がどう変わろうと、松岡さんが説くサンタクロースの意味は、ほど良い普遍性を保っているように思います。
ところで、松岡さんはさらに、
「別にサンタクロースには限らない。魔法使いでも、妖精でも、鬼でも仙人でも、ものいう動物でも、空とぶくつでも、打ち出の小槌でも、岩戸をあけるおまじないでもよい。幼い心に、これらの不思議の住める空間をたっぷりとってやりたい」と書いていますが、しかし、サンタクロースは、魔法使いや妖精等々のファンタジーとは明らかに別次元のリアリティーをもっています。それは言うまでもなくサンタさんのプレゼントであって、サンタはおとぎの世界と現実世界を「現物への欲望」で架け橋するいささかトリッキーなファンタジーなのです。トリックの実行犯たる親としては、これがどう続くのか、その行く末が気になるものではないでしょうか。そこで一編の詩を鑑賞していただきましょう。
「サンタクロース」と題したこの詩は、以前、アディムの課題で三年生の女の子が書いたものなのですが(散文として書かれたものを詩の体裁に補作し、アディムの4年生の教材に借用しています)、サンタクロースという圧倒的なインパクトをもつファンタジーが、その後の子どもの現実認識とどう折り合っていくのをかい間見せてくれます。
「サンタクロース」
クリスマスの夜/私はきいてみました。/どうせ、サンタさんがもってくるんやから/高いものでもいい?/お母さんは/「あかん。」といいました。/そうか、やっぱりあかんのか。
いもうとに/私はきいてみました。/サンタクロースって、いてるとおもう?/いもうとは
「いてない。」といいました。/そうか、やっぱりいてないのか。
おねえちゃんにも、私はきいてみました。/するとおねえちゃんは/「ゆめがないんやな。」と、いいました。/わたしは/「そうか!」と思いました。
いもうとは、サンタクロースなんて/いてないっていうけど、/私は大きくなるまで/いてると思っとこ。
ときどき、いもうとが/サンタクロースなんて、いないというと/私はいそいで/「いてる、いてる。」といいます。
これを学習課題にして考えを展開させるとまた面白い話になるのですが、それはさておき、この詩に、「目に見えないものを信じるという心の働き」が揺さぶられ変容しつつ再生していく様が見て取れはしないでしょうか。人間の心には、ほどよいファンタジーが必要なのです。