『りんご通信』2000年11月号より
最近、朝日新聞に『あのね… 子どものつぶやき』というコラムが掲ることがあります。ひとつだけ引用させてもらうと、
『トンボが群になって飛んでいる。「どこで生まれたんだろうね」と尋ねると「風から生まれたんだよ、きっと」(名古屋市 木村勇大・3歳)』
といった調子です。こうした思いがけないことを子どもはよく話してくれます。教室でもお母さん方に「書きとめておくと愉しいですよ」とお奨めしているので、そのおこぼれがときどきアップルノートにも登場するのですが、ずっと以前にこんなのがありました。
あるとき貸農園で親子そろって汗を流していたら、空がにわかにかき曇り、ゴロゴロと雷が鳴りわたりました。そのとき三才のさやかちゃんが「お空がこわれる」とつぶやいたのだそうです。それを聞いてお父さんが「詩人だなあ」といたく感動していたという話です。親バカですとノートは結んでありましたが、親でなくても心打たれるものがあります。しかしなぜここで大人は感動するのでしょう。
通念にない結合が生む
新しい価値
この場合、ふつうは「雷が鳴っている」と表現します。ところがこの子はそんなことは知らなかった―、だがその場の異変をなんとかして表現したかったのです。そこでとっさに、何かがこわれるとき音がするというすでに獲得している知見と、音の発生した方角に空があるという認識とを結びつけて「お空がこわれる」と言った―。それが、いかにもその時の状況を言い得て妙であった―。その、なんとかして表現しようとした健気さと、通念では結びつかぬ「お空」と「こわれる」を結びつけて見事に表現し得た手柄とに、大人は感動するのでしょう。
この子もやがて「お空がこわれる」とは言わなくなります。教えても教えなくても、通念にしたがって「雷が鳴っている」としか言わなくなるでしょう。それは、子どもの成長過程のひとこまに違いありません。ただ、もしそれで「お空」と「こわれる」を結びつけるような頭の柔らかさを失っていくとしたら、それは問題です。なぜならふつうでは結びつかぬものを結びつけて新しい価値を発見・産出するというパターンには、創造的思考のカギがあるからです。
人は経験から全くかけ離れたことを思いつけるものではありません。新しい何かが必要なとき、すでにある世界を視点を変えて見直し、結びつきにくいものを結びつけてみる頭と心の柔らかさがモノを言います。これは「生きる力」やユーモアの源泉でもあります。
ハキハキと
「はい、ワカリマセン」?
先日、「お受験」をテーマにしたテレビ番組をのぞいたら、面接の練習場面にこんなのがありました。先生が子どもに「好きな季節は何ですか」と聞きます。子どもは即座に「それは夏です」と答えます。そこで先生が「どうして夏が好きなのですか」と聞くと「海へ行ってあそべるからです」と淀みなく答えています。これで試験者を安心させることが出来るのか知りませんが、いかにもステレオタイプの茶番と言わなくてはなりません。おそらくは万事がこの調子で、あれこれ子どもを通念の網にからめ取ってしまいそうです。
アディムランドの在籍生にも当然ながら「お受験」のためにその種の教室に通い始める子がいます。アディムはそのことに関知しないのですが、子どもの様子でそれが見え見えになることがあります。例えば妙に紋切り型になって、すこしやっかいな課題に当面すると「はい、ワカリマセン」と実にハキハキ言ってのけたりしだします。ああでもないこうでもないと、ねばっこく取り組むアディムらしさが壊れてしまってガッカリします。まだ資質にゆとりのある子は状況を複雑に判断し、場に応じて使い分けも出来るのですが、ゆとりのない子はそれで凝り固まってしまいかねません。そんな子を見ると、パーソナリティーに及ぼす幼児期の影響の大きさを改めて実感します。こうして作られた方向を転換することはなかなか困難なものです。
幼い子の親としては、「お空がこわれる」に感動する親バカ心を大事にしたいものです。もちろん「お空がこわれる」であれば「そんな言い方はいけません。雷が鳴っていると言いなさい」などと咎めたりはしないでしょう。しかし実のところ私たちは「お受験」に限らず日常的なさまざまな場面で、それに類した対応をしかねない状況にあります。「お空がこわれる」に続く発想を封じ込めるような「教育」を、無反省によしとしてはいないか疑ってみる必要があります。