「ほめる」と「おだてる」を考える

『りんご通信』2000年1月号より

 「ほめる」と「おだてる」はどう違うかと聞くと、「おだてる」には下心が感じられ「ほめる」にはそれがない、という指摘が返ってきます。まさにその通りなのですが、ここではその点をひとまず棚上げして、別の角度から両者の違いを考えてみましょう。面白いしつけのチップスが見えてきます。

 まずこの二つは発するタイミングが違います。つまり、「ほめる」のは何か行動があった後であるのに対して「おだてる」のは行動の前です。「ほめる」も「おだてる」も快さが共通点の、いわばごほうびなのですが、それを与えるタイミングの違いが「ほめる」と「おだてる」の構造的な違いをもたらしています。
 「豚もおだてりゃ木に登る」という諺があります。木にはとうてい登れない豚でさえもおだてれば…、というわけです。けれどもぼやき漫才風に屁理屈をこねると、どんな豚であってもおだてられて木に登ることはありません。豚を木に登らせようとするなら、登りかけたらすぐほめ、また登ったらすぐほめることをつないでいくほかないでしょう。ところが人間ならおだてて木に登らせることが出来る…、という訳で、しつけにおいてもついつい親は子どもをおだてて何かをさせようとしがちです。けれども子どもだってそうそうおだてには乗ってはくれないものですし、そればかりか、逆効果に終わることも少なくありません。それはなぜでしょう。
 行動主義の心理学に「強化の原理」というものがあります。ある行動に対してごほうび(報酬)が返ってくるとその行動は強化され、ごほうびが返らなくなると消去する。また、ある行動に対して不快な刺激、つまり罰が返ってくるとその行動は減少するという、いわばアメとムチの原理です。アメといっても文字通り生理的な作用を持つものから賞賛や注目などの社会的報酬と呼ばれるものまでを含み、さらに嫌なことがなくなるのもアメのうちです。
 しかし「おだてる」はこの原理にすんなりと収まりません。「おだてる」をこの原理から見ると「ほめる」というアメに変身してしまいます。このアメが、まだ行動がない時点で与えられているのですから、「何もしないことを強化する」結果に成りかねないのです。「おだてる」が逆効果になる訳です。
 「おだてる」が成り立つにはそのメッセージが伝わらなくてはなりません。それには高度で大量な情報の入力が必要です。受け手の能動的な姿勢も欠かせません。ところが快いごほうびのアメに変身してしまえばはるかに少ない情報入力で済みます。「おだてる」が失敗するのはこの単純な情報合戦に負けたときだと言えましょう。情報の受け手が未成熟であればある程そうなる可能性は高くて当然です。
 強化の原理(学習理論、オペラント条件付けなどとも言う)はもともと動物の行動を対象に出発したものです。人間の営みが(そしておそらくは動物のそれでさえも)本質をすべてこの原理で説明できるほど単純なものだとはとうてい思えませんが、同時にこの原理が、動物はもとより人間の営みのあらゆるところに働いていることも否定できません。情報入力が少なくて済む経済的な適応機構ですから、乱暴な言い方をすれば、人間の中の動物と共通する部分で幅を利かせています。だから、しつけの場でもこれに逆らったアプローチが難しいものになることは知っておくべきです。
 学ぶべきは、子どもが何かをしたりしなかったりするとき、そこに何かごほうびが働いているのではないかと逆方向から考えてみる視点を持つことです。例えば、子どもの悪語(「ばばたれ」を頻発するなど)はよくあることですが、叱っても叱ってもやめないなら叱ることがごほうびになっているのではないか…と、逆に考えてみましょう。叱るのを一切やめて無視したらだんだん言わなくなったなどというケースはよくあります。叱ったり罰を与えたりするより、その行動を強化している刺激(強化子)を見つけ出して取り除くのは親切で有効な方法です。
 しつけには「したいことをさせない」と「したくないことをさせる」がつきものですが、そのための学習理論の立場からの技法にはまことに精緻なものが構築されています。機会があればまた見てみましょう。

 ところで、こうしてみると「おだてる」というのは、相手の期待に応え自分を励まして高みを目指すという、優れて人間らしい反応を期待したものだといえます。「おだてる」の語感の悪さをを除けばむしろ子育ての王道だとさえ言えましょう。ただこれも過ぎると過剰適応の怖さがあります。やはり子育てはほどほどのバランスが大事です。

サンタクロースと ファンタジー

『りんご通信』2001年12月号より

 1973年12月10日の朝日新聞に児童文学者の松岡亮子さんが『サンタクロースの部屋』と題する一文を寄せています(これは後に同名のエッセイ集の序文に転載されているのでお読みになった方もいるでしょう)。その中で、あるアメリカの児童文学評論誌の記事として次のような文章を引用しています。
 「子どもたちは遅かれ早かれ、サンタクロースが本当はだれかを知る。知ってしまえばそのこと自体は他愛のないこととして片付けられてしまうだろう。しかし、幼い日に、心からサンタクロースの存在を信じることは、その人の中に、信じるという能力を養う。わたしたちは、サンタクロースその人の重要さのためではなく、サンタクロースが子どもの心に働きかけて生み出すこの能力のゆえに、サンタクロースをもっと大事にしなければいけない」というものです。
 これを受けて松岡さんは、「心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間をつくりあげている」ので、長じてサンタクロースがいなくなっても、そこに「サンタクロースに代わる新しい住人を迎え入れる」ことができる。それは「目に見えないものを信じるという心の働き」で、この働きが「人間の精神生活のあらゆる面で、どんなに重要かはいうまでもない。のちに、いちばん崇高なものを宿すかもしれぬ心の場所が、実は幼い日にサンタクロースを住まわせることによってつくられるのだ」と述べています。
 このコラムが載った頃、日本の社会は技術革新と高度成長に走る一方で、人の感性や知性が合理性だけでは治まらないことに目を向け始めていました。ファンタジーの意味が問い直されていたのです。その後、オカルトや超能力ブームから宗教や「精神世界」ブームからオーム真理教、最近では「千と千尋の神隠し」や「ハリー・ポッター」まで、ファンタジーをめぐる世相にはめまぐるしいものがありますが、世の中がどう変わろうと、松岡さんが説くサンタクロースの意味は、ほど良い普遍性を保っているように思います。
 ところで、松岡さんはさらに、
「別にサンタクロースには限らない。魔法使いでも、妖精でも、鬼でも仙人でも、ものいう動物でも、空とぶくつでも、打ち出の小槌でも、岩戸をあけるおまじないでもよい。幼い心に、これらの不思議の住める空間をたっぷりとってやりたい」と書いていますが、しかし、サンタクロースは、魔法使いや妖精等々のファンタジーとは明らかに別次元のリアリティーをもっています。それは言うまでもなくサンタさんのプレゼントであって、サンタはおとぎの世界と現実世界を「現物への欲望」で架け橋するいささかトリッキーなファンタジーなのです。トリックの実行犯たる親としては、これがどう続くのか、その行く末が気になるものではないでしょうか。そこで一編の詩を鑑賞していただきましょう。
 「サンタクロース」と題したこの詩は、以前、アディムの課題で三年生の女の子が書いたものなのですが(散文として書かれたものを詩の体裁に補作し、アディムの4年生の教材に借用しています)、サンタクロースという圧倒的なインパクトをもつファンタジーが、その後の子どもの現実認識とどう折り合っていくのをかい間見せてくれます。

  「サンタクロース」
 クリスマスの夜/私はきいてみました。/どうせ、サンタさんがもってくるんやから/高いものでもいい?/お母さんは/「あかん。」といいました。/そうか、やっぱりあかんのか。
 いもうとに/私はきいてみました。/サンタクロースって、いてるとおもう?/いもうとは
「いてない。」といいました。/そうか、やっぱりいてないのか。
 おねえちゃんにも、私はきいてみました。/するとおねえちゃんは/「ゆめがないんやな。」と、いいました。/わたしは/「そうか!」と思いました。
 いもうとは、サンタクロースなんて/いてないっていうけど、/私は大きくなるまで/いてると思っとこ。
 ときどき、いもうとが/サンタクロースなんて、いないというと/私はいそいで/「いてる、いてる。」といいます。

 これを学習課題にして考えを展開させるとまた面白い話になるのですが、それはさておき、この詩に、「目に見えないものを信じるという心の働き」が揺さぶられ変容しつつ再生していく様が見て取れはしないでしょうか。人間の心には、ほどよいファンタジーが必要なのです。

甘えは子どもを強くするのか弱くするのか

『りんご通信』2004年3月号より

かつて日航機墜落事故の折り迷走する機内で死を覚悟した父親がわが子に書き残した最後の言葉が「強く生きろ。」だったと報じられたとき、多くの親が身につまされる思いをしました。まことに人生を思えば、「強い」人に育って欲しいと願うのは親心です。

ところで、「強い」に親心は何事を託しているのでしょう。おそらくは人に頼らず、甘えず、自身の力で困難を解決していく「自立した精神の持ち主」といったところでしょう。それはいわば時代が要請する命題なので、世の親がこぞって子どもの自立を願うのも不思議ではありません。その結果「甘える」という営みが 「自立」をはばむものとして否定的に受け止められたとしても、これまた不思議ではないのでしょう。けれども、それで子どもは本当に「強く」育つのでしょうか。強さとは何か、甘えとは何か、もう少し分け入って考えてみましょう。
 母と子の関わりが育む「甘え」の感情を日本人特有の心理構造として説明した土居健郎の『甘えの構造』が出版され、三十余年が経ちました。その間、氏の「甘え」についての考察は心理学を超えて広範な影響を与えました。ところが一方、「甘えの構造」という言葉は一人歩きをしだし、日本人に特有な甘やかしの悪しき有り様を糾弾する用語として一般受けされていった嫌いがあります。それはちょうど「情けは人のためならず」ということわざが本来の意味とは逆に「情けをかけてはは本人のためにならない」と解釈されだしたのと機を一にする時代風潮の所産なのでしょう。かくして人は人に情けをかけにくくなり、子は親に甘えにくく、親は子を甘えさせにくくなった状況があります。それは、子どもの心の失調や、親による虐待の多発などと無関係なのでしょうか。

これに関し土居健郎は、昨年、『続「甘え」の構造』(弘文堂刊)を世に問い、興味深い考察を展開しています。まず、あらためて「甘え」の定義を「人間関係において相手の好意をあてにして振舞うこと」(65ページ)だとしています。また、「甘え」という言葉のもつ意味内容として「人間関係において接近を喜ぶ感情」(84ページ)であり「そのような感情を持つことを欲すること」だとも述べています。そしてこの感情は日本においては「甘え」という適切な語をもっているほどに顕在しているのだが、実はどんな社会·文化においても働いているものだとし、「求める愛」(ルイス)、「受動型の愛」(バリント)、「刷り込み」(ローレンツ)、「アタッチメント」(ボウルビー)などの概念との共通点を見て、その普遍性を説いています。この碩学が、西欧の文脈の中に「甘え」に相当するものを見つけたときの真摯な喜びはそのままこちらに伝わってきて、言いしれぬ安堵感をもたらしてくれますが、それとともに、「人間は本来幼年時代に甘えることで人間関係に組み込まれ、甘えながら信頼を学び、次いで社会で自立するに至る。」(130ページ)のだとあらためて示した見解は、甘えが自立をはばむものではなく、自立を健やかに準備するものだということを再確認させるメッセージとして、世の親には重要です。

人間にとって強さとは何でしょう。「意志が強い」「けんかが強い」、「がまん強い」など、強いイメージにはいろいろあります。けれどもまず大切なのは、人それぞれに人間関係をつくっていく力ではないでしょうか。人間は社会的な生き物ですから、これなしでは生きていけません。そのためにまず、幼児期に両親、ことにお母さんにしっかりと受容され、十分に「甘えた」体験が必要なのです。 甘えることによって、心の深いところに他者と自分とに対する信頼感を根付かせ、人への接近を喜ぶ感情を培った子は、自分が無力な存在ではないことを知っています。これが人としての強さの前半分です。そして後半分は、自分が無力な存在ではないことを知った子が欲求のまま生きようとするとき、親が「それはダメだ」とか「自分でやれ」などとしつけることで実現します。その厳しさを通して、社会的に危険なことを知ることが人の強さのもう一つの側面です。
 甘さと厳しさ、この相反するどちらを欠いても強い子に育てることはできません。けれどもそのことを端的に表現するのはなかなかの難問で、昔から「甘やかしてはいけないが甘えを受け入れる必要はある」などと複雑な言い方をしたものです。でも、そこに順序·機序があると考えれば取り組みに整理がつきます。まず甘み、その上での辛み…、料理の味付けといっしょですね。甘みが利いていて、初めて辛みが生きてくるもの…、順序が逆だと、なかなかうまくいかないのです。

内向的な子 vs 外向的な母親の ヒゲキ?

人はみな同じではない

『りんご通信』2002年9月号より

こんな話があります。
 ある秋の晩、お母さんが台所仕事をしていて、フト今夜はいい月夜のはずだったと気づき、縁側で遊んでいた子どもに聞きました。「〇〇ちゃん、お月さま出てるでしょ? まん丸いお月さん? それとも三日月さん?」。するとその子は夜空の満月を見上げ「まん丸いお月さんだよ。お母さん」と答えました。ところが別の子。お母さんが同じことを聞いたら、その子はフーと夜空の満月を見上げ、しばらくは月の輝きに見入っていて(きれいやなあ。あそこでウサギさんがおもちついてるってほんまやろか…どれがウサギやろ…)などと、まるで深呼吸でもするように思いをめぐらしていています。いつまでたっても返事がないので、お母さんはもう一度たずねます。「どうなの、お月さんは、まん丸い?」。するとその子は「エーとねぇ。あのね。ウサギさんがね…」。
 この話は(出所が定かではないのですが)外向的な子と内向的な子の違いをイメージとして表現したものです。前者は外向的な子で、相手に返すことにスッと気持ちが向き、期待されるような答えを上手くまとめて反応しているのに対し、後者は内向的な子で、自分が内面で感じたことにより気持ちが向くため、考えがさまよったり膨らんだりしたあげく、相手には分かりにくい反応をしています。「かしこいねえ」と受け入れられやすいのは前者かもしれませんが、お月さまについてより深く感じ、考えているのは後者だという違いが汲み取れます。(ただしこの話はあくまでたとえ話なので、よくある「心理テスト」の類ではありませんから念のため)

外向的か内向的かというのは、基本的にはその人の自然な興味·関心が自分の内面に向かうか外界に向かうかの傾向の違いですが、これが子育てや教育の場に働く影響は意外とバカにできません。内向きの個性と外向きの個性とでは物事の受け止め方や反応の仕方、そして価値観までがときに正反対だったりするからです。
 多くの場合、人は両方の要素をもっているのではっきりと分け難いものですが、あえて単純に言えば、外向的な人は内向的な人が分からず、内向的な人は外向的な人が分からないので、お互いに苦手でキライということになります。このギャップが親子で生じると当然ながら親子関係に影響します。ことに子どもが内向的な場合、お母さんも内向的なら子どもの心の中を分かってあげやすいのですが、お母さんが外向的だとそうはいかなくて、先の話なら「お月さんはまん丸なの? そうじゃないの? どっちかハキハキしなさいよ」などと、否定的な関係になりがちです。テンポも内向的な子はゆっくりめなのに対し外向的なお母さんは速めなことが多いので、勢い「早くしなさい!」を連発することにもなります。逆のシチュエーションでも、やはりそれ故の行き違いが生じることになります。学校や幼稚園などで、担任の先生が変わるとクラスの雰囲気や子どもの様子が変わることがありますが、これにも向性が関わっている場合が少なくありません。
 価値観の違いはこんなエピソードを生みます。小学校の低学年のクラスで子どもたちが家へ持ち帰る作品づくりをしていましたが、ある子の作品はちょっと子どもの手に余りそうだったので先生が少し手を加えておいてあげました。ところがその子は、「これはもう私の作品じゃない。私が作ったものをお母さんにあげたかったのに」と泣いて悲しんだというのです。この子にとって重要なのは傍目の出来栄えといった外的な価値ではなく、自分でやり遂げることで得られる内的な価値だったのです。もしこれが外向的な子どもだったら、出来栄えの良さという外的な価値に満足し、喜んで持ち帰ったかもしれません。
 こうした向性の違いはとりわけ子どもの社会的な対人態度に現れます。例えば、ふと子どものしぐさや言葉づかいがおかしかったり可愛かったりすると、大人は思わず笑ってしまうものですが、これを受けた子どもの側の反応はさまざまで、ことに座の中だったりすると、外向的な子はますますはしゃぎだすのに、内向的な子はとたんに傷ついたとばかり引っ込んでしまってウンともスンとも言わなくなるといった違いです。
 向性は人の個性であって、どちらが望ましいわけでもありません。互いに異なる得手·不得手をもって補い合う性質のものです。親でも先生でも、子どもに対しては自分の向性がどうであれ、それを越えた視点で配慮を払うべきでしょう。

「お空がこわれる…」に なぜ、感動するのか。

『りんご通信』2000年11月号より

 最近、朝日新聞に『あのね… 子どものつぶやき』というコラムが掲ることがあります。ひとつだけ引用させてもらうと、
『トンボが群になって飛んでいる。「どこで生まれたんだろうね」と尋ねると「風から生まれたんだよ、きっと」(名古屋市 木村勇大・3歳)』
といった調子です。こうした思いがけないことを子どもはよく話してくれます。教室でもお母さん方に「書きとめておくと愉しいですよ」とお奨めしているので、そのおこぼれがときどきアップルノートにも登場するのですが、ずっと以前にこんなのがありました。
 あるとき貸農園で親子そろって汗を流していたら、空がにわかにかき曇り、ゴロゴロと雷が鳴りわたりました。そのとき三才のさやかちゃんが「お空がこわれる」とつぶやいたのだそうです。それを聞いてお父さんが「詩人だなあ」といたく感動していたという話です。親バカですとノートは結んでありましたが、親でなくても心打たれるものがあります。しかしなぜここで大人は感動するのでしょう。

通念にない結合が生む
新しい価値
 この場合、ふつうは「雷が鳴っている」と表現します。ところがこの子はそんなことは知らなかった―、だがその場の異変をなんとかして表現したかったのです。そこでとっさに、何かがこわれるとき音がするというすでに獲得している知見と、音の発生した方角に空があるという認識とを結びつけて「お空がこわれる」と言った―。それが、いかにもその時の状況を言い得て妙であった―。その、なんとかして表現しようとした健気さと、通念では結びつかぬ「お空」と「こわれる」を結びつけて見事に表現し得た手柄とに、大人は感動するのでしょう。
 この子もやがて「お空がこわれる」とは言わなくなります。教えても教えなくても、通念にしたがって「雷が鳴っている」としか言わなくなるでしょう。それは、子どもの成長過程のひとこまに違いありません。ただ、もしそれで「お空」と「こわれる」を結びつけるような頭の柔らかさを失っていくとしたら、それは問題です。なぜならふつうでは結びつかぬものを結びつけて新しい価値を発見・産出するというパターンには、創造的思考のカギがあるからです。
 人は経験から全くかけ離れたことを思いつけるものではありません。新しい何かが必要なとき、すでにある世界を視点を変えて見直し、結びつきにくいものを結びつけてみる頭と心の柔らかさがモノを言います。これは「生きる力」やユーモアの源泉でもあります。

ハキハキと
「はい、ワカリマセン」?
 先日、「お受験」をテーマにしたテレビ番組をのぞいたら、面接の練習場面にこんなのがありました。先生が子どもに「好きな季節は何ですか」と聞きます。子どもは即座に「それは夏です」と答えます。そこで先生が「どうして夏が好きなのですか」と聞くと「海へ行ってあそべるからです」と淀みなく答えています。これで試験者を安心させることが出来るのか知りませんが、いかにもステレオタイプの茶番と言わなくてはなりません。おそらくは万事がこの調子で、あれこれ子どもを通念の網にからめ取ってしまいそうです。
 アディムランドの在籍生にも当然ながら「お受験」のためにその種の教室に通い始める子がいます。アディムはそのことに関知しないのですが、子どもの様子でそれが見え見えになることがあります。例えば妙に紋切り型になって、すこしやっかいな課題に当面すると「はい、ワカリマセン」と実にハキハキ言ってのけたりしだします。ああでもないこうでもないと、ねばっこく取り組むアディムらしさが壊れてしまってガッカリします。まだ資質にゆとりのある子は状況を複雑に判断し、場に応じて使い分けも出来るのですが、ゆとりのない子はそれで凝り固まってしまいかねません。そんな子を見ると、パーソナリティーに及ぼす幼児期の影響の大きさを改めて実感します。こうして作られた方向を転換することはなかなか困難なものです。
 幼い子の親としては、「お空がこわれる」に感動する親バカ心を大事にしたいものです。もちろん「お空がこわれる」であれば「そんな言い方はいけません。雷が鳴っていると言いなさい」などと咎めたりはしないでしょう。しかし実のところ私たちは「お受験」に限らず日常的なさまざまな場面で、それに類した対応をしかねない状況にあります。「お空がこわれる」に続く発想を封じ込めるような「教育」を、無反省によしとしてはいないか疑ってみる必要があります。

子どもの絵に どう、つきあうか

『りんご通信』2003年7月号より

 アディムランドは「お絵かき教室」ではありませんが、絵はとても大切だと考え、お母さま方にお伝えしてきたことがあります。そこから要点をひろってみました。

作文の書ける子と
書けない子と
 「絵は苦手だ」という人は少なくありませんが、そんな人でも、絵を描くことを楽しんでいた時期があります。それは他でもない幼児期です。
 次ページ以下に掲載した絵(作品1~6)は、ひとりの人物(仮にKさんとします)が幼児期に描いた膨大な作品の一部です。彼女は幼児期の数年間、ごく日常的な営みとして絵を描き続けました。お絵かき教室に行ったこともなければ両親が教えたわけでもありません。ただ、いつでも紙やクレヨンなどが用意されていたので、彼女は何か見たり聞いたり体験したりすると、せっせと絵に描いていたのです。絵を描くことは大きな楽しみのひとつでした。
 ところがそんな彼女が、小学校の三、四年の頃から次第に絵を描かなくなりました。ことに図工の授業の写生は最悪の気分だったといいます。長じては、絵はまことに不得手な分野に成り果てていて、「もう少し絵ごごろがあれば…」と切実に思うそうです。幼児期にあんなに熱心に取り組んだ絵はムダだったのでしょうか。そのあたりについて考えてみようというのが本稿のテーマです。
 Kさんが絵を見限ったのは、自分が絵が下手だと気づいたからでした。自分が表現したいことがだんだん複雑になっているのに描画能力が及ばなくなったことを苦痛に感じはじめたのだそうです。たとえば、かってはボールで遊んだことを描きたいと思えばボールと遊んでいる自分や友だちを描けば満足できたのです。ところが跳び箱を跳んだ躍動感やスリルが快感に変わった感激を描きたいと思うようになると、これは至難の業でした。そのため表現の欲求は、自然に話したり書いたりの言語表現へ向かったのだろうと述懐しています。それまで好きだった図工の時間が苦手になったけれども、代わりに作文では満たされたそうです。
 しかし、作文の苦手な子は少なくありません。そんな子に作文を書かせるのも、これまた至難の業です。が、ひとつ特効薬があります。それは、子どもをどこかへ連れて行くことです。ディズニーランドへ行った、地引き網に参加した、ホタルを見に行った…といった鮮烈な体験をさせると、いつもは悶々として書かない子が自分から書きだしたりします。でも、作文のためにいつもいつもどこかへ連れて行くわけには行きませんし、そうでなければ書けないというのも情けない話です。
 作文が書ける子は、どこかへ連れていかなくても日常的な体験の中にちゃんと書くことを見つけ出します。ところが書けない子はそれができません。同じような日々を過ごしていても表現したいトピックを思い描くことができず、途方に暮れています。文章を綴る以前に、心の中のスクリーンに何も写し出せないでいるのです。もし心の中のスクリーンに映し出されるものがありさえすれば、文章を綴るという作業はおのずと促されます。ディズニーランドに連れていけば書きだすのはその証拠です。なんとか、「心の中のスクリーンに映し出す力」を養う手だてはないものでしょうか。

絵を描くことで
子どもは何を学ぶのか
「お絵書き」という言葉があります。絵はおけいこ事のように見なされていて、「お絵書き教室で絵を習う」などということが行われていますが、しかし何を習わせるのかはよく見定めておく必要があります。
 絵を描くためには、五感で得た体験を記憶の棚から引っ張り出し、自身のレンズで切り取って心の中のスクリーンに映し出す過程が必要です。G・H ・リュヶはそれを「内的モデル」と呼んで、名著『子どもの絵』(須賀哲夫訳/金子書房)の随所でそのことに言及しています。例えば
―紙面に描かれる絵というものは、実際の事物の知覚や視覚像を再生したものではなく、その事物についての内的モデルを再生したものである。したがって、はじめにその事物の絵を描くためには、その事物についての内的モデルを心の中に創造しなければならない―
 「お絵かき」のいちばん大事な部分はおそらくそこにあります。絵を描くことで子どもは表現したい対象を心の中に思い描く能力を育てるのです。この能力が絵であれ作文であれ、さまざまな表現活動を成り立たせる原動力となります。
 表現の手段が絵であるか言葉であるかの間には無数の相互作用が生じます。これに関連して、子どもの絵の研究者であると同時に実践的な啓蒙家でもあったV・ローエンフェルドは、やはり名著『子どもの絵』(勝見勝訳/白揚社)の中で次のような意味の、まことに示唆に富んだ指摘をしています。
―子どもの中には絵によって考え、言葉では考えない子がいる。そういう子は想像力は豊かだが、言葉で表現するのは下手だ。思ったことを言葉で表現できないと自信をなくし、自分の感情表現をひたすら絵に向けてしまう。こういう子にひとりで絵をかかせておいてはいけない。かいた絵を刺激につかい、何とか言葉で表現させるように質問して、話をさせなさい。一方、絵について話をさせると絵にないことをたくさん話す子がいる。イメージを形づくる力(絵によって考える力)が未発達なため、絵に描くより話すほうが容易なのだ。言葉で考えて絵では考えないというのはあまりいいことではない。もし子どもの言葉がイメージによって裏付けられ、話したことが目の前にありありと描けたら、子どもの言葉はもっと意味の深いものになるだろう。絵にはないことを子どもが話すようなら、それらの話の全部を絵にかくようにしむけなさい。やがてのびのびとした芸術表現をするようになる―
 絵を描くことにまつわって子どもは表現力を育てます。それは描画の領域にとどまらず言語の領域にまたがるものです。 
 表現するという行為は、自分が思ったことを外に再構成して示すことです。幼い子どもであっても、自分の描いた絵が自分をふくめ誰かに見られことを想定しています。表現することでいったん対象化した自己と向き合うことになり、他者とのつながりを得ることにもなります。
 それがどれほど子どもを知的にも社会的にも成長させる契機となるかは、子どもの絵や作文につきあっていけば実感することですが、ピンと来ない方はご自身の学生時代のリポート体験を思い出すといいでしょう。講義を聞き、本を読み、あるいは実験や調査をして分かったようなつもりになっても、いざリポートを書こうとすると理解の不十分さが浮き彫りになってきます。リポートにまとめようとする過程で次第にそれらがクリアになり、自分の考えが組み立てられる…、そんな経験は誰にもあるものですが、子どもが絵を描くという行為に同様の構図を見るのもあながち的外れとは言えません。生活の中に、表現するという工程が入り込むことにより、体験を漫然とした記憶の中に棚ざらしにしてしまうのでなく、あらためて対象に目を凝らし、自身との関係を創造する必要が生じます。これが「心の中のスクリーンに映し出す」作業であって、そこから産出された絵は子どものレポートでありエッセイであり論文なのです。

子どもの絵は年令で
段階的に変わる
 リュケやローエンフェルドをはじめ多くの研究者は、子どもの絵が年令とともに段階的に発達をとげるとしています。このことは、子どもの絵をどう受け止め、それにどうつきあうかに深く関わってくるので知っておく必要があります。
  リュヶは、子どもの絵の意図は本質的に写実性にあるが、ただ8~9歳までは対象について知っていることを描こうとする「知的写実性」の段階にあるのであって、見えるように描こうとする「視覚的写実性」の段階はその後に現れるのだとしました。この見解は基本的で重要なものです。発達段階の設定には諸説がありますが、リュケのこの見解を基本に、諸氏の説を援用しながら、あらましをたどってみましょう。なお、各段階の年令帯については、佐々木宏子氏に多くを依拠しました。(『児童心理学ハンドブック』波多野完治他編/金子書房)

なぐり描き期】(6ヶ月~3歳半ごろ)
 子どもの描画はなぐり描き(スクリブル)から始まります。まだイメージは関わりなく、線が描ける楽しみを反復するだけの「練習遊び」です。点々に始まり、左右、上下の線から円形の螺旋状の描線へと発展してき、線はだんだんしっかりしてきます。(作品1)また、線と遊ぶことで精神的な充足と発達もとげます。グレチンゲルはその著『幼児画の謎』(鬼丸吉弘訳/黎明書房)の中で ―なぐり描きは、幼児の音声です。対象もなく言葉をもなしませんが、生のリズムそのものです―と述べています。なぐり描きは描画における喃語のようなものだと言えましょう。これを思う存分にさせる必要があります。なぐり描きの時期に制約が多いと 四、五歳になってのびのびと描けなくなりがちだと言われています。ことさらに何か意味や形のあるものを描かせようとしなくても、その中から次のステップが現れてきます。

作品1 なぐり描き。線がかなりしっかりしてきた。
もうじき円が描けるころ。

偶然の写実性
 ステップのひとつは、リュケが偶然の写実性と呼んだもので、自分が描いたなぐり描きの中に何かのイメージを見つけて「コレハ、ナニナニ」と命名する現象です。これはまさに描画の始まりを意味します。多くは大人から見るとわけの分からないものですが、子ども自身にとっては大きな発見なのですから、その命名に耳を傾けてやることがとても大事です。(作品-2)

作品2 「けむりがモーッとモエテルノ」
なぐり書きが後も焼却炉のけむりに見えたから


意味づけ開始期】(1歳半~4歳ごろ)
 もう一つは円の出現です。なぐり描きを繰り返すうちに完結した円が描けるようになると、描いた円に意味づけをして、円でどんなものでも表すようになります。(作品-3)アルンハイムが「本源的な円」と呼び「一語文」と形容した現象です。
―円は絵画的媒体で利用できる最も簡潔な形である。形が分化するまでは、円は丸さをあらわすものではない。それは特にどの形を表すものでもない代わり、どんな形でもあらわすのである。『美術と視覚』(波多野完治訳/美術出版社)―とした彼の表現はまことに言い得て妙です。

作品3 「おさかなのおさんぽ」。ひとつの円はパパ。ひとつの円はママと、家族のひとりひとりを円で表した。


並べ描きの時期】(2歳半~5歳ごろ)
 そのうち子どもは、円と線を組み合わせることを学習し、さまざまな記号様の図柄を描くようになります。長坂光彦氏がまとめた発達段階の図(『絵画製作・造形』川島書店)ではこの時期に前図式期という区分が与えられ、子どもが描く図柄のバリエーションとその発展が示されています。(図1)子どもはこの様な図柄しか描けないので、やはり何でもこれらの図柄で表現しようとします。思いつくままに描き連ね、昨日のことと今日のこと、ある経験と別の経験などが脈絡なく並ぶため、「並べ描き期」「カタログ期」などと呼んでいます。まだ一枚の絵にひとつの世界を描くという空間的統合がなされない段階で、リュケの言う「できそこないの写実性」の時期にあたります。
 これらの図柄にはやがて頭足人(ヘッドマン・おたまじゃくし人間)が加わります。円の中に円を入れ、線を生やしたもので、人間にも動物にも自動車にもなります。本稿の題字下に飾った絵もそのひとつです。

図1 描画活動の発達過程(長坂光彦)


知的写実性の最盛期】(3歳半~10歳ごろ)
 次いで図1で図式期(覚え描きの時期)とされている段階が訪れます。リュケの言う知的写実性に支配された、幼児画の黄金期です。このころの子どもが「見たものを描くのか、思ったことを描くのか」には議論があるのですが、視知覚的にどう見えるかに構わず概念的にこうだと「思ったこと」を絵に盛り込むところは、「見たものを思ったように描く」のだと考えるのが妥当なところでしょう。人間に目が二つあると思えば横顔でも二つの目を描きますし、「たべものの旅」のお話を聞いたら胃袋の中にあるはずのカレーを描かずにはいられませんし、大事な物事は大きくあるいは克明に描きます。心の中が最も直接的に絵に表れて面白い時期で、それだけ絵を描くことが精神的な発達に直接的につながる時期だとも言えます。(作品4・5)

作品4 パパ、いってらっしゃい」
父親を見送る毎朝のできごと。
手を振るところが大事だったから大きく描いた。
作j品5 庭にアリが群がっているのを見てびっくりした。
いつの間にかそれを絵に描いていた。


視覚的写実性へ】(9歳~)
 こんな知的写実性の時期も、成熟とともに視覚的写実性の時期に座を譲ります。見えるように描こうとするため、もう何かに隠れて見えないものは(知っていても)描き入れませんし、近くのものは大きく、遠くのものは小さく描くなどの透視画法的視点が導入されることになります。絵に対するこの視点の変化は心性の発達に伴うことなのですが、それを描画の上に実現するとなると、いよいよ絵画的表現の才能と審美眼が働いてきます。冒頭に登場したKさんが絵から離れていったのもこの時期のできごとでしょう。
 視覚的写実性の実現が誰にでも成功するものではないのに比べ、知的写実性の実現はあらゆる子どもに可能ですし、また必要なものです。Kさんのようにそれが後の「絵ごころ」へとつながらなくても「言葉ごごろ」につながるなら、より一般性のある発達の礎だと言えましょう。

「お絵かき」で、
何をどう指導するか
 実践的な啓蒙家としてローエンフェルドが説いていることのエッセンスは「物を描写するのではなく、物についての体験を表現させよ」です。
 だから、まず体験が大事です。例えば自分の手を描かなかったり、描いても小さかったりするのは、自分の手をしっかり使った体験に乏しいからかもしれません(よくあることです)。それなら手をしっかり使った体験をさせれば手は生えてきます。それでもダメなら、「あのとき、どうしたかな」と、手を使った体験を心の中に思い描く援助をしてあげましょう。間違っても「手が描いてないよ。手を描きなさい。」などと言わないことです。それで子どもは手を描くかもしれません。しかし、記憶の中から自身の特別な体験を取り出し、イメージを創造する仕事は、失われます。

 同様の観点からローエンフェルドはぬり絵を糾弾していますが、そこで左の写真のような例を紹介しています。鳥を上段のように描いた子が、中段のぬり絵に出会って描き方を教えられ、その後は鳥といえば下段のようにしか描かなくなったというのです。

表現するという活動には楽しさと同時に創造の苦しみがつきまといます。ラクな道があれば、子どもはそこから逃げ出しますし、あるいは強制され、心の自由を失った状況では、閉じこもって、のびやかな表現をあきらめもします。(作品6)

作品6 夏休みのキャンプ先で「さあ描きましょう」と言われて描けなくなった。色を重ねて塗りたくるだけ。自由な心を失うと絵は描けない。

 ローエンフェルドはまた、「感情表現」や「芸術表現」といった言葉を用いて、子どもの絵にリュケやピアジェより積極的な意味合いを与えています。例えば彼は『子どもの絵』(前出)でヴァージニアというとても神経質で無口な女の子のケースを取りあげています。彼女は、毎夜寝るときに何かの気配(実は街灯の影)に人知れずおびえていました。その苦しみは誰にも分かってもらえませんでしたが、ある日、先生に励まされてそのことを絵に描いたので、彼女の不安が分かりました。それだけでなく、絵が、「(彼女の)創造的活動に過去の経験と直面するのに必要な柔軟性」を与え、「自分の経験と直面できるようになるにつれて彼女の緊張感や不安は安らぎ、やがて消えていった」と記しています。「ママゴン」に角を生やてみたり、憎むべき同胞を描いて「ダメ!」と黒く塗りつぶしたり、子どもの絵には感情の葛藤が象徴的に表現されることさえあります。子どもは時に象徴遊びの中で遊戯療法を自らに施していることがありますが、同じようなことを絵でしているかもしれないのです。
 子どもの絵は、内的世界を豊かにし、また癒しもします。ありあわせの紙とクレヨンのアトリエが開く大きな可能性です。

天秤ばかりで遊ぼう

「勉強」には先行する「実体験」がモノをいう

『りんご通信』2006年3月号より

 次ページ(本ブログではページ末尾)の図面は天秤ばかりの紙細工キットです。アディムの幼児用の教材のひとつで、大人の手で作って与えていただくためのものです。実物はA4の厚紙ですが、これを縮小転載しています。拡大(B5からA4へ)コピーし、丈夫な(市販のレターファイルに使われているぐらいの厚さの)紙で裏打ちして組み立ててると、写真のような秤が出来上がります。幼児だけでなく小学生も喜んで遊んでくれるでしょう。お試しください。


 紙細工とはいえ木製の玩具などより繊細な秤の機能を発揮します。問題は分銅に何を使うかですが、硬貨がいちばん手ごろです。ちなみに一円硬貨の重さはちょうど1グラムです。これを1に、1:5:10などの分銅を作って楽しめばいい。周辺のいろいろな小物の重さを、1グラム未満の四捨五入感覚で測ることが出来ます。

この秤で子どもは
何を学ぶのか
 この秤はアディムの幼児カリキュラムのある時点で顔を出しますが、だからといってその後、秤をテーマにした課題が続々と続くという訳ではありません。それよりも秤というものに触って、あれこれ体験してもらおうと意図しています。そうした先行体験がいずれさまざまな課題を展開する際にモノを言います。
 まず最も基本的な、より重い方が下がるのだという認識を繰り返し体験する中で定着させます。この体験がないと、大人には自明に思えるこの認識があいまいなままです。「こっちの方がたくさんで重いんだ。ではどっちが下がる?」と聞いて「こっちが下がる」と軽い方を指す子もいるものです。
 こうしたプリミティブなところから始まるさまざまな秤体験から子どもが学んでいく過程は決してスムーズではないでしょう。時に誤った認識を持ち、それを壊しては次の認識に至る、そのためには時間の経過も必要になります。そういう意味で大人の注意深い関与も必要です。ときどき付き合ってあげると、さまざまな知的発達の現場に立ち会うことができるでしょう。
 例えば、一方に一円玉を一個を置いて崩れたバランスは反対側に一個を置くことで取り戻せるといった体験は否応なく子どもの思考をかき立て、重さという物理的な現象を通して一対一対応の原理を実感させるでしょう。傾いた秤のバランスをとり直すには、分銅をどれだけ取ればいいのか足せばいいのかなどの操作は、秤という仕掛けを前にすれば誰でも試みたくなる操作です。これで等しいという概念の幅を広げ、左項と右項を=(等号)で結ぶことの新たな意味を学ぶ準備ができます。重さを数に置き換えることで補数や虫喰い算の論理に無理なく入れます。また、 推移律(A=B,B=CならばA=C)を直に体験するために天秤ばかりほど適したツールはありません。

生活体験の上に
成り立っている勉強
 そもそも「勉強」などというものは、学校のそれもアディムのそれも、子どものさまざまなレベルでの生活体験の上に成り立っているものです。ことに幼少児の場合はそのことが大きな意味を持ちます。勉強は、そんな子どもの生活体験を整理し、筋道立て、現実をどう見るかの視点や問題解決の方法を獲得していくものだといえましょう。
 天秤ばかりは一連の重要な体験を可能にする有用なデバイスです。上の図はほんの一例に過ぎませんが、アディムのデスクワークではそれらの体験が随所でさまざまな形の課題となって取り上げられ、観念的な押し付けではない般化・抽象化への道へと子どもを誘います。

天秤ばかりの紙細工キット
本ブログでのキット(上)は解像度の低いpng画像です。
教材番号も公開バージョンとは異なっています。

共感的読解力と 論理的読解力

『りんご通信』2005年7月号より

アタマの中はEタイプかAタイプか

昨今、読解力の低下ということが言われます。文章を読み取る力はあらゆる教科の基本ですし、人が生きていく上でもカギとなる能力の一つです。そこで、読解力を養おうとあれこれ工夫をするのですが、問題の根は深く一筋縄ではいきません。一筋ならぬ二筋におよぶ様相を見てみましょう。

論理的読解力と
共感的読解力
 アディムの小学生クラスでは大概の子どもがわずかな休憩時間を惜しむように教室文庫の本を読んでいます。A君もそんなひとりで、けっこう複雑な物語も楽しんでいます。ただ、彼が物語の中の因果関係をどこまで理解しているかは疑問で、少し突っ込んで聞いてみればあいまいな点が目立ちます。それでも彼は登場人物への感情移入に動機づけられてひたすら物語の進展を楽しみます。対照的にB君は、もっぱら図鑑や理科系の本に興味を示し、このマシンはどうするとどう働くとか、あの昆虫は何を食べるのかなどといった事実関係には驚くほど精通していても、主人公に感情移入して物語の進展を味わうという面では幼いところがあって、ストーリーについて行けません。
 ひとくちに読解力といっても二つの側面があります。論理的な読解力と共感的な読解力です。A君に論理的な読解力が足らず、B君に共感的な読解力が足らないことは、国語の読解の勉強の際にいやでも実感することになります。また算数の文章題などでも根は同じと思わせる困難さを示します。それどころか、この違いは読解力の問題を超えて子どもの性行のあらゆるところに、それも幼い頃からはっきりと顔を出していることに気付かされます。例えば動物園に連れて行っても、動物に興味を示し、その可愛さや恐さなど情緒的に喜ぶ子がいる一方、せっかく動物園へ来たのに動物はそっちのけで、あそこの扉はどこへつながっているのか、あの水はどこから出てくるのかといった物理的な仕組みにもっぱら興味が行く子どもがいる、といった調子です。
 もちろん興味と能力は同じものではありませんから、興味はなくてもよく解るというケースも、興味はあるけれど解らないというケースもあります。けれども多くの場合、好きこそモノの上手と言われるように興味に動機づけられて能力は開発され、能力に支えられて興味が増すとう循環作用が働くもので、A君とB君のような違いにもそれがあるでしょう。

対照的な思考の傾向
EタイプとSタイプ
 こうした違いの原因を人の持っている思考の傾向の違いなのだする見方があります。人の感情や人と人の関係性を理解する共感型(empathaising) のEタイプと、物事の仕組みや因果関係を理解する システム化型(systematizing) のSタイプの違いだというのです。「人への興味かモノへの興味か」の違いだと受け止めてもいいでしょう。
 共感型の思考の持ち主は人の気持ちやその関係性から世界を捉えようとします。喜びも感じるけれど傷つき易くもあって文学などにも親和性のある、いわば文科系の思考です。勢い数学はニガ手だったりして、どちらかといえば女性に特徴的だとされます。対してシステム化型の思考の持ち主は、事実としての現象の因果関係や規則性から世界を捉えようとします。数学は好みのターゲットだったりするいわば理科系の思考で、いわゆる「オタク」に典型が見られる、男性に特徴的な傾向だとされます。文系か理系か、あるいは女性か男性かなどと決めつけるのはステレオタイプの弊があるとしても、どこか現場での実感と符合するところはあります。もとより人はこの二つを合わせ持っているわけですが、どちらかに偏りがあるのがむしろ自然というものなのでしょう。
 話を読解力に戻すと、論理的な読解力はシステム化型の思考傾向に由来し、共感的な読解力は共感型の思考傾向に由来することになりましょう。このバランスがとれると相乗効果と言いたくなるほど読み取る力は向上します。そこで、あの手この手と手を施すのですが、見てきたように問題の根は深く、気の遠くなるような長丁場になります。ひとくちに読解力と言っても、一筋縄ではいきません。

知ってるようであんがい知らない 知能テストと IQのしくみ

『りんご通信』2006年4月号より

 やっぱり気になる「知能テスト」と「IQ」ですが、その仕組みをご存知でしょうか。概略をかいつまんでみましょう。

知能テストとは
どんなしくみのものか 
 知能テストは、今から100年前、フランスの心理学者A・ビネーらが文部当局から頼まれて作ったものです。学業不振児の指導方針を決めるために、不振の原因がその子の資質(知能)にあるのかそれ以外にあるのかを判断するのが目的でした。
 ここでビネーが用いた方法は画期的でした。それまでのように感覚や記憶などの要素を実験装置で測るような方法は用いず、知能が問われると考えられるさまざまな問題を作って多くの子どもに与え、結果を統計的に調べてみたのでした。
 すると多くの問題で、年齢が進むと合格する子どもの割合が増えていくことに気づきました。そこから問題を年齢で規定する着想を得たのです。具体的には問題ごとに同年齢の子どもの75%(4人に3人)が合格する年齢を出し、各問題をその年齢の問題として位置づけました。そして、年齢の順序で問題を配置したテスト・バッテリー(組み合わせ)を作ったのです。
 このテスト・バッテリーを子どもにさせると、あるところまで出来て、そこから先は出来なくなります。そこで、その子は何才の問題まで出来たのだから、精神的には何才に相当すると考えたのがビネーの「年齢尺度」と「精神年齢」の概念です。テストといえば何問中の何問が合格したかの「点数法」が常識だった時代に、これは実に画期的な方法でした。

IQとは
どんなしくみのものか
 その後、ビネーの知能テストは世界へと広まりました。中でもアメリカのL・ターマンによる改訂版は「スタンフォード・ビネー」として有名ですが、ここで内容的にも変質をします。そのひとつがIQの採用です。
 IQ(知能指数)はビネーの死後、ドイツのシュテルンという学者が考えたもので、精神年齢と生活年齢(満年齢)の割合いを指数に表したものです。
 精神年齢÷生活年齢×100
の式で計算され、例えば満5才の子が5才の精神年齢を示しているなら100、6才の精神年齢なら120、4才の精神年齢なら80がIQです。
 精神年齢とIQでは、「知能」の意味合いが若干異なり、イメージとなると大いに違ってきます。精神年齢がある年齢時点での発達水準を判断する指標であるのに対し、IQは年齢を超えた頭の良さの指標としての「顔」を持ってきます。加えてターマンらはこのIQが変わらないものだと主張しました。IQ神話の始まりです。
 たしかに5才の時点で示した知能の発達ぶりは6才になっても尾を引きますからIQは手がかりにはなりますが、実際は、5才と6才で測定すればIQは違ってくるのが普通です。IQは決して不変ではなく、このことはIQ妄信の戒めであると同時に、幼少期の教育の可能性を示すものでもあります。
 また、IQに理論的な根拠は薄弱です。精神年齢は発達の段階を意味する順序尺度で、指数化のような割ったり掛けたりの操作をすべき比尺度でありません。1才の精神年齢の倍が2才のそれではないのですから。

知能テストが計るのは
頭の良し悪しではない?
 ところで、テストバッテリーに組み込まれた問題は年齢が進むに従って合格する子どもの割合が増していく性質のものですから、幼少期の健常児の場合、いずれはほとんどの子が出来るようになります。言い換えると、知能テストは問題をクリアする時期が早いか遅いか、つまり早熟か晩生かを診ていることになります。だから知能テストが計っているのは、頭の良し悪しというより知能の発達のペースだと考えるべきでしょう。幼少期の発達のペースは人によってさまざまですから、IQが変動するのも当然なことです。
 また知能の発達は、10才までは年齢差が個人差よりも大きいので年齢尺度で測るのが妥当なのですが、それを過ぎると次第に個人差が年齢差を上回るようになり、知能を年齢尺度で測ることにも無理が生じてきます。精神年齢の測定原理は本来子どもを対象としたもので、大人の測定には不向きなのです。これは、子どもが未分化な一般的知能を年齢とともに発達させている存在なのに対し、大人はその上に分化した特殊知能を築いていく存在で個人差が大きい、という現実に対応しています。
 幼少児の知能の発達ぶりを知っておくことは、その子に合った教育を考える上で貴重な指針となります。そのために知能テストに勝るものはありません。
 数ある心理テストの中でも知能テストほど大きな歴史と規模に支えられたものはなく、排斥の的にされやすいだけにきわめて真摯に作られてきました。知能テストは、まことに貴重な社会的財産と言うべきでしょう。

幼児に数をどう教える?

『りんご通信』2000年3月号より

数のむずかしさとは
 リンゴを見せて「これはリンゴだよ」と教えることは出来ます。でも、何かを見せてこれが 「1」だよと教えることが出来るでしょうか。仮に指一本を出して「これが1だよ」と言って みても、それはまず何よりも「指」でしょうし、リンゴ1個を見せて「これが1だよ」と言っ ても、それはまずリンゴです。数も言葉の一種ではありますが、「リンゴ」という言葉を教え たり覚えたりするのと同じようにはいきません。つまり「1」という言葉の場合、「1個のリ ンゴ」であったり「1匹の象さん」であったりする、いろいろな事物の存在に共通する、数の 側面だけを表します。けれどもはじめから数的側面だけを見せることは出来ませんから、やは り「1個のリンゴ」や「1匹の象さん」のような具体物の個数から1という数の意味を汲み取 らせるほかありません。すると、1は2より1少ないとか、1と1で2になるなどの他の数と の関係が浮かび上ってきます。つまり数はバラバラに存在するものではなく、相互の厳密な関 係があってはじめて意味をもちます。こんなに抽象的で体系的な数の意味を子どもに理解させ るのは一筋縄ではいきません。

百まで言えても…
  ただ、言葉には意味の側面と音声の側面とがあって、意味が伴わなくても音声を習得する事 は出来ます。「イチ、ニ、サン」と、十や二十まで唱えられると、いかにも数が達者なよう見 えますが、少し規則性のある歌の文句を覚えているようなもので、数の意味をどれほど理解し ているかは別問題です。そのあたりの実状は、ものを数えさせてみると分かります。
 いまここに、ドングリが五個あるとします。ある子は十まで数えられるのだとばかり、五個 しかなくても十まで数えます。ドングリの一つひとつに数詞の「一、二、三」を対応させるこ とには無頓着です。またある子は対応させることはできても同じドングリを何回も数えて十ま でいきます。もう少し進んで、ドングリの一つひとつと数詞を対応させ、五でぴたりと止まっ たとします。そこで「いくつあったの?」とたずねると、また指で数えながら「一、二、三、 四、五あったの」と答えます。「だから全部でいくつだったの?」と何回聞いても「一、二、 三、四、五あったの」と同じこと。ドングリのそれぞれに一、二、三と命名の儀式を執り行っ ているといった感覚で、量としての数を把握しているのではありません。だから、たとえば七 個のかたまりと八個のかたまりがあって、片方を七まで数え、片方を八まで数えたとしても、 どちら多かったかは分からないなどということが生じます。

数とは何だろう
 数量の最も基本的な機能は、この「多いか、少ないか、等しいか」を区別するところにあり ます。どれだけ多い(少ない)もその上に導き出されます。
 この区別をするためのいちばん素朴で原理的な方法は、二つの集合を直接につき合わせて、 中のひとつとひとつを「一対一対応」させていくことです。その結果、ピッタリ合えば両者は 等しく、片方に余りが出たらその方が多いことになります。けれども、幼児にとってはこの「 対応づけられたものは同数だ」という原理があまり確かなことではなく、それがしっかりと分 かるまでにはさまざまな体験と成熟が必要です。いったんきちんと分かりやすい形で対応をし て「同じだ」と納得しても、片方の並べ方が変わるだけで「こっちの方が多くなった」と考え たりしますし、粘土を同じ大きさのボールにして「同じだ」と納得したのが、片方を平たくの ばしたらこっちの方が多くなった考えるなど、見た目の直感で対応の判断がくずれます。この 段階では数を理解する基盤が出来ていないのですから、「一、二、三」の数唱をいくら覚えて も数としては使いこなせません。なぜなら、数とは、この「対応したものは等しい」という原 理をそっくり道具に仕立てたものだからです。
 いま、二つの集合が直に一対一対応出来るなら、数はなくても多・少・等の区別がつきます 。紅白玉入れの審判がそれで、ふつうみんなで声を合わせて数を数えますが、べつに数えなく ても審判は可能なわけです。
 しかし直接に一対一対応のつき合わせが出来ない場合はどうでしょう。二者の間を仲立ちす るものによって一対一対応をしなくてはなりません。つまり、AとBとの間にFという仲立ち を置き、一対一対応によってAとFが等しく、FとCが等しければ、AとCは等しいことにな ります。これを推移律といいますが、数とはこの仲立ちの個々のケースに「1」とか「2」の 名前を付けたものだと考えればいいでしょう。それには、物と物との対応を基にした物と数と の対応への発展が必要で、このとき数唱が数概念を支えます。

対応、分類、順序づけ
 数唱が量としての数概念を伴うようになると、いよいよ数えることが本格化します。多・少 ・等を区別する数の機能を使って、事物を勘定したり演算する世界へ入り始め、「消しゴムと 机と先生と会わせて三つだ」と数えるのがちょっとおかしいとか、鳥の数を数えるのに動物全 部を数えてはいけないとか、さらには青いリンゴはリンゴ全部より少ないか同じはずだなどと いう分類の考え方も切実な課題となってきます。
 また、数が大小関係をもっていて、自然数がひとつずつ増えることをしっかり認識するには 順序づける操作を自由にこなせることも必要です。長さが順番に異なる棒を順番に並べて棒階 段をつくる課題をさせてみると順序づける操作にさまざまな発達段階があることが分かります 。ここでは、A<B<C…の、やはり推移律の関係を作り出して行かなくてはなりません。
 推移律という原理は数概念だけでなくあらゆる論理的思考を支える概念なのですが、子ども にはきわめて分かりにくいものです。試しに「太郎は花子より背が高い。太郎は次郎より背が 低い。だれが一番背が高い?」と聞いてみましょう。いろいろな答えが返ってきて子どもの頭 の中を覗かせてくれます。
 このように、数を獲得するまでに子どもは実に多くのことを学ばなくてはなりません。しか し、それはにわかに出来あがるものではありません。幼児期からのさまざまな数体験の積み重 ねが、小学校以後の算数の成績を規定します。ただ、幸いなことに、多くの幼児はそれを楽し みます。アディムランドでは、さまざまな視点からそうした学習を行っています。
 数学者で水道方式の提唱者である遠山啓氏の『幼い子どもの頭は、数に対して白紙です。間 違った教え方は白紙に落書きをするようなもの。わざわいの種になるでしょう。』の言葉が思 い起こされます。